Prefuse 73が体現するヒップホップの精神性
Writer: Akashi
ヒップホップといえば「言葉の音楽」というイメージを抱いている人が大半であろう。ラップに込められた想いや熱量の凄まじさにヒップホップの独自性、固有性を感じ、魅入られていた人は実際に筆者の周りにも多数いる。
グラフィティやファッションといった要素の重要性は言うまでもないが、ヒップホップと言えばラップミュージックという暗黙の了解のようなものが実情として蔓延っているようにも感じる。
そんなヒップホップのパブリックイメージを大胆に覆しかねない手法で楽曲を作るミュージシャンがいる。それがギレルモ・スコット・ヘレンだ。様々なソロプロジェクト(あるいはソロユニット)を展開し、それに伴い様々な名前を持つ彼だが、その中でも巷に名の知れた彼のプロジェクトといえば「Prefuse 73」がまず挙がる。
このPrefuse 73、何が凄いのか(もしくは何が彼の存在を押し上げたのか)と言えばラップをチョップ(サンプリング音源を細かく分断して再構築する手法)した「ボーカル・チョップ」の手法を導入した独自のエレクトロニカヒップホップを展開したことだろう。
それまでにもチョップという手法は存在していたし、ヒップホップの領域では強い市民権を得ていたことはよもや言うまでもない事実ではある。しかしそれらは主に既存の(あるいは過去の)楽曲部分に向けて行われてきたし、当然ながらラップにチョップを行う者は然程いなかった(スコット曰く自分がボーカルチョップを行う以前からそういった手法を導入しているアーティストはいたとのこと)。ラップの意味を損なうような真似をしては、ヒップホップというジャンルの基盤すら揺らぎかねないという意味では、禁じ手的な見解を示す者もいそうではある。しかしながら1990年代以降誕生したMassive Attackなどに代表されるトリップホップの躍進により、ヒップホップのトラックメイキングの側面を更に拡張せんというアーティストが多く登場したのである。そのようにスコットの大胆な手法を柔軟に、寛容に受け止める下地がヒップホップシーンには作られていたのだろう。
そうした背景の流れで、彼はヒップホップのエゴを潰すために(恐らくこうした発言は音楽的にも文化的にも画一化の一途を辿っていたヒップホップに対しての危機意識と、愛する音楽文化をよりよい方向へと傾けたいという彼のヒップホップへの愛によるものであると推測される)カウンターカルチャーであるところのヒップホップへのカウンターを仕掛けたのである。
そうした背景を基にPrefuse 73が作り上げたエレクトロニカヒップホップは、早耳のリスナー達の間でその存在を知らしめることとなる。果たしてこれは真にヒップホップなのか、という議論の対象となることもあり得るかとは思うが、個人的な見解としてはスコットが作り上げてきた作品や精神性は、まぎれもなくヒップホップに根ざしているように思える。それは彼のこの発想の飛躍と、ストリートカルチャーとの連関性が見出せるからである。スケーター達が安全のために用意された手すりなどで危険な技を試みたことや、楽曲のブレイク部分を反復再生してブレイクビーツが作られたことといった、ストリートカルチャーが生んできた「逆転の発想」と同じ匂いがする試みである。
加えて、その後のスコットの活動も踏まえると、彼のそういった精神性や態度が単なる一過性ものではないということを改めて認識できる。ボーカル・チョップは他のアーティスト、トラックメーカーもこぞって模倣し始めると共に、スコットには「エレクトロニカ・ヒップホップ」、「ボーカル・チョップ」というフレーズが付きまとうようになった。そうした中で、スコットは彼が広めた手法に縋り付くことなく、いとも容易くボーカルチョップと縁を切った。ヒップホップの貪欲に解体と再構築、拡張を繰り返す精神に共鳴していた彼にとっては、過去の制作物には既に興味が損なわれていたのかもしれない。
そしてそれがPrefuse 73という「ヒップホップ」プロジェクトをやるにあたっての彼の矜持でもあるのかもしれない。カウンター精神を体現するためのプロジェクトに従事する者として彼は、その後ノイズ寄りのアルバム、アブストラクト・ヒップホップ寄りのアルバム、生演奏重視のアルバムなどと、さまざまな試みを仕掛けてきた。
アブストラクト・ヒップホップ寄りのアルバム
生演奏重視のアルバム
一見して右往左往しているようにも受け取れる上に、実際に評価が芳しくない作品もある。今だに2003年に制作された「One Word Extinguisher」が最高傑作だとする声も少なくない。
批判や回帰を望む声に晒された試行錯誤の末に、2015年にPrefuse 73が出したアルバム「Rivington Nao Rio」は、これまでの道のりによって培われたものが十全に活かされているばかりでなく、コンセプトによる呪縛から解放されたかのような自然、かつ美しい音のバランスと響きがある。
Prefuse 73の今日にいたるまでの道筋を追うことで、表層的でないヒップホップの精神の有り様が見えてはこないだろうか?これを機にメインストリームの枠外にいるアーティストが掲げるヒップホップのあり方にも目を向けてみては如何だろうか。
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